高校卒業を待たずに渡欧、日本のトップスキーヤーに。
須貝龍さん(すがいりょうさん 24歳)
アルペンスキーレーサー。チームクレブ所属。高校3年生よりヨーロッパに渡り、海外レースを転戦する生活を送る。2014-2015シーズン:ナショナルチーム強化指定選手。新潟県出身。
※アルペンスキー:斜面に赤と青のポールがセットされ、交互にくぐりながらゴールを目指す競技。タイムだけが勝敗の判断基準となる。
中学までは水泳の方が好成績、そこでスキーを選んだ理由とは
中学校では水泳とスキーの両方に打ち込んでいた。夏場は水泳、冬場はスキーの練習の毎日。実は、水泳の方が成績が良かった。中学3年時には、全国大会で平泳ぎ200mで7位に入ったほど。なぜ、スキーを選んだのか気になったので聞いてみた。
須貝さん:スキーの方が楽しくて、あと楽なイメージも強かったので。水泳はとにかく泳いで泳いで、とにかくストイックなんですよ。スキーは、リフトで上がって滑るだけだし、全体的にそこまでストイックというイメージもなかったんです。
私もスキーをやっていた人間として付言しておくと、確かに須貝さんの言う通りのイメージだ。練習は真面目にはやるが、スキーヤーには元々やんちゃな(?)人が多く、例えば野球部のようなイメージの練習はしない。中学時代の水泳の練習は本当に厳しいもので、平日は朝練と夜練の2部構成、休日は朝、昼、夜の3部構成だった。1回の練習で2時間〜2時間半泳ぐので、平日だけで4、5時間は泳いでいた。平日の朝練は、当然学校に行く前。朝6時から、学校が始まるぎりぎりまで練習をしていた。授業中は辛かっただろうに・・・。
高校は八海高校に進学。理由はスキー部が強かったから。八海高校はスキー強豪校。練習は厳しくないはずはないのだが、それでも中学時代の水泳の練習に比べると、それほど辛いと感じたことはなかった。須貝さんは強豪新潟県において、高校1年生から県予選で優勝し、インターハイ出場権を獲得している。やはり素質がすごい。
渡欧の決断
なぜ高校3年生からヨーロッパに渡ったのか。高校を卒業してからならまだしも、高校3年生の途中から日本を離れている。その答えには、須貝さんが本当にスキーが好きだったんだろうな、というエピソードを聞くことが出来た。実は、須貝さんは高校時代は怪我に悩まされていた。高校1年生のシーズン途中に足首の靭帯損傷、高校2年生ではシーズンが始める前に膝の靭帯を損傷し、スキーをしないままシーズンを終えている。つまり、高校3年生になるまでに半シーズンほどしかスキーをしていないのだ。
進路選択が迫られる高校3年生、そこで須貝さんが下した決断とは、「海外でスキーをして、それで終わりにしようと思いました。」というものだった。少し驚いたので改めて聞いてみると、特に1年で辞めるとか期間の定めはしておらず、とにかく海外でスキーをしたかったそうだ。中学2年生からカナダやオーストリアに1ヶ月ほど遠征に行くことがあり、その時の楽しかった経験が忘れられなかったのだ。同時に大学でスキーを続けることにネガティブな印象もあった。確かに、当時は大学生が高校生に負けるレースを結構な頻度で見ていた気がする。つまり大学に進学後、スキーが遅くなるのだ。これは、高校までは周囲のサポートを受けて着実に成長していくのに対して、大学では自己管理能力が問われる。ここに小さくないハードルがあった。ちなみに、最近は大学生が高校生に負けるレースはあまり見なくなった。
こうして、高校3年生から渡欧する決断をした。両親に反対されることはなく、海外でのコーチや練習に関しては、当時須貝さんが使用していた用具メーカーの人に相談をした。不安はありませんでしたか、という私の質問に対しては「不安を想像することが出来ていませんでした。言葉も特に話せるわけではなかったんですけど。滑りにもある程度自信はありました。ただ、これも人の滑りの上手い、下手を判断出来なかったこともあるんですけどね。」と答えてくれた。普通だったら、少し恥ずかしいエピソード、それを淡々と話してくれる須貝さんに不思議な魅力を感じた。
言葉の壁、日本と海外のレースのレベルの違い
海外に行ってからは、やはり言葉には苦労した。しかし、最初の2年はまだよかった。日本選手2人と日本人コーチ1人の4人で活動していたからだ。しかし、3年目からは自分でオーストリアのコーチを雇い、練習やレースのアレンジも自分で行い始めた。費用を抑えたいという理由からだ。当然コーチは日本語を話せない。この時、大きな言葉の壁を感じたという。「聞けたとしても、自分の意見が言えない。そうすると、相手もつまらなくなっちゃうんですよね。」当然のことながら、コーチとは密にコミュニケーションをとらなければならない。一緒にいる時間も長い。相当な辛い思いをしたのだろうと想像できる。スキーもなかなか上手くいかなかった。
須貝さん:最初に出たのは確かイタリアのボルミオのレースでした。今思えば大したレベルの高いレースでもなかったんですが、リバースに入ることも出来なかったんですよね。スタート順よりも順位が落ちてしまうんです。
ここで、少しスキーレースの仕組みを紹介しておく。スキーはスタート順が早いほど有利だ。人が滑れば滑るほどコースが荒れて、自分が思うような滑りが出来なくなるからだ。シーズンを通して大会のグレードと順位に応じた世界共通のポイントが与えられ、速い選手ほどスタート順が早い。つまり、選手は徐々にのし上がっていくしかない。また、スキーレースは種目にもよるが2本滑った合計タイムで競うことになっており、1本目30位の人が2本目は1番に滑れる。これを、30番でスタート順が折り返されるので「リバース」という。つまり、スタート順が遅い選手でも、1本目で30位以内に入れば、2本目は綺麗なコースで滑れるため、大きく順位を上げるチャンスがあるのだ。須貝さんは、ポイントに応じて、実力相応のスタート順でスタートを切ったはずなのに、順位はスタート順より下がってしまっていたということだ。
思うように成績が出ない。そこで頑張れた原動力とは
最初は楽しい気持ちが先行して来たヨーロッパ。少しスキーがつまらなくなってしまっていた。それから6シーズンもヨーロッパで活動している。なぜ続けられたのか、聞いてみた。
須貝さん:1年目から嫌になったのですが、父親に連絡をとると『1年では戻ってくるな』と言われました。一緒に動いていた選手やコーチとも、励まし合いながら。きつく言い合うこともありましたけど。そして本当に徐々に良くなっていきました。最初80位くらいだったのが、70位、60位、50位と、そしてリバースに入れるようになると一気にコース状況が良くなって1桁に入れるようになっていったんです。本当に少しずつ上がっていきました。
中学、高校と、同世代でではあるが日本トップレベルの選手として活躍してきたであろう須貝さん。日々どのような葛藤があったのだろうか、原動力はなんだったのだろうか。聞いてみた。
須貝さん:葛藤と言われると難しいんですが、原動力はやっぱり恥ずかしさや情けなさですね。日本では有り難いことに同年代で上位の成績があるとスキーメーカーからサポートをしてもらえます。ウエアやワンピース、スキーなどの用具が毎年新しいのが貰えるんです。けど、ヨーロッパではナショナルチームに所属する選手でないと毎年新しい用具は貰えません。自分は毎年新しい綺麗な道具を身に付けて滑っているのに、ワンピースが破れてる選手より遅い。そんなことがとにかく恥ずかしかったし自分が情けなくなった。用具提供を受ける選手としてどうしても負けるわけにはいきませんでした。
スキーでは日本は後進国。スキー先進国のヨーロッパで、日本人の自分が一番綺麗な道具を使っている。そんな環境が須貝さんの強くなりたい、という気持ちをさらに駆り立てたに違いない。
ヨーロッパの生活
海外ではどんな生活をしていたのだろうか。滞在場所はオーストリアのエッツという村。家を借りて、もちろん自炊をしながら生活をしている。コーチの友達の家に、スキーの大好きなおじちゃんがいる。一緒にワールドカップを見たり、滑りの話をしたり、メンタル面や技術やチーム体制の話もする。オーストリアはスキーの人気が高く、日本でいう野球のようなもの。
一緒に練習をしているのはリヒテンシュタインのチーム。交流は盛んなようで、楽しそうにこんな話をしてくれた。
須貝さん:方言の勉強をしたり、選手の家に行って料理を勉強したりしています。料理は節約のためです。逆に箸の使い方を教えたりもしますね。あっちの人は日本人はみんな寿司を作れると思っていたりするんですよね。あと、お祝い事にチーズフォンデュをしたり。お祝いなのにチーズとパンだけですよ!どれだけ質素なんですか、って思いました。
日本のアルペンスキーレーサーのやりくり事情
アルペンスキーはお金がかかる。いや、突き詰めるとスポーツでトップを目指そうとすると大体の競技はお金がかかるのかもしれないが。トップスキーヤーの場合、道具はメーカーから提供を受ける。選手がその道具を宣伝してくれる広告塔になってくれるからだ。速い選手が履いているスキー板、スキーブーツ、スキーウェアはみんな身に付けたくなるものだ。だが、道具以外にもお金はかかる。須貝さんの生活を見れば分かるように、海外生活費、渡航費用、大会エントリーフィー、リフト代などなど。どうやって賄っているのだろうか。
アルバイト、家族からの援助など人によって様々であろうが、その中の1つにスポンサーを自分で探し、資金援助を受けるという方法がある。テレビに出ることが少ないアルペンスキー。スポンサーを探す苦労は容易に想像出来る。知り合いのツテを辿って何件も何件も当たっていく。契約が成立するということは「あなたに、いくら出しますよ」ということが明示されるということだ。この瞬間はうれしいという。一方で、全日本スキー連盟からの援助はあまり受けられない状況にある。スキー連盟も予算的に厳しいからだ。須貝さんはナショナルチームに所属しているが、チームで活動したのは夏と秋に1ヶ月ずつ。しかも資金的な援助はなかった。連盟の合宿以外では各々練習場所を探し、大会を転戦し世界で活躍する道筋をたてていく。
目指しているもの
「高速系種目で世界で活躍したい。」この一言だった。アルペンスキーは、回転、大回転、スーパー大回転、滑降の順に滑走スピードが上がっていく。日本選手は回転を得意としており、皆川賢太郎選手がトリノ五輪で4位に入ったのも回転種目だ。スーパー大回転、滑降を高速系と呼ぶが、これらの種目のナショナルチームは現在日本に存在しない。世界で活躍する選手がなかなか出てこなかったからだ。
須貝さんは、高速系を得意としており、日本人の中では世界ランキングでトップ。時速150kmにも達することがある滑降は、広いコースと長い距離が必要で、日本では1998年長野五輪以来、長く大会すら行われることがなく、2014年4月に日本での大会が復活した。16年ぶりだった。コースを貸すスキー場側の理解だけでなく、高い安全管理のノウハウ、安全ネット貼りなどの準備もあり、日本で滑降の練習が行われることはほとんどないと思う。しかし、海外では練習出来る環境があり、海外で活動する須貝さんは様々なチームに混ぜてもらいながら練習をしている。そして結果も出している。
須貝さん:海外では滑降の早い選手が一番人気があるんです。でも日本は違う。日本では活躍出来る回転が人気ですし、回転が得意でないとスキーを続けていくのが難しい。ジュニアには高速系が得意な選手もいっぱいいるので、日本のこの雰囲気を変えていきたいんです。
海外生活をしたことで得た高速系の練習環境、そして結果が出始めて改めて日本のスキー界が見えてきた。そこで感じた問題意識。ヨーロッパに渡り、スキー文化も含めて世界を経験した須貝さんだからこそ感じ得たものではないかと思う。そして、それを変える力も得つつあるのではないだろうか。2016年2月、新潟県湯沢町の苗場スキー場でアルペンのワールドカップ開催が決定している。残念ながら高速系種目は行われないが、回転も得意な須貝さんは活躍を誓っていた。期待したい。
最後に
海外に渡った時は、本人も話してくれたように「楽しい」という気持ちが先行していたのだと思います。しかし、現地ではスキーのレースだけでなく言語の面でも大変な苦労をされたのだと思います。そこから本当に徐々に徐々に世界で通用するための技術と経験、そして視野の広さを身につけていったのではないでしょうか。何かを始める時、立派な理由を求めてくる人が多くないですか?何よりも大事なことは、始めてみること。「楽しい」「好き」だと思えること。そんなことを感じさせてくれるインタビューでした。
急斜面を直下降に近い形で降り、時には50mほどもジャンプすることがある高速系種目。それを得意とする須貝さんはどんな人かと思っていましたが、終始落ち着いて話してくれました。イメージとのギャップ、独特の雰囲気。彼の独特な経験が、その雰囲気・魅力を創っているように感じました。